古市憲寿氏「死ぬまで誰かを許さない社会は、やっぱり違う」「『正義』の暴走は、不幸を生んできた」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
今回の小山田の件についての古市さんのつぶやきなんだけどね。
古市さんは、「過去は水に流せ」「正義の暴走により、人を殺すことがある」ということを言いたいんだよね?
この「死ぬまで(もしくは死んでも)」というのが、自分が死ぬことなのか、相手が死ぬことなのかわからないけどさ。
私は糾弾しつづけることも場合によって必要だと思うよ。
理由は、社会の中で生きているんだから。
過去に行った罪は一生消えない。
よって、糾弾されつづけることは覚悟して、行動を行わないといけない。
もし、糾弾されつづけて自殺に至ってもそれは因果応報だと思っている。
糾弾される中、どうやって社会の一員として認めてもらえるのか、それを人生をかけて見つけるのが償いにつながると思う。
古市さんは糾弾された人を「新たな被害者」だと定義しているようだが、その前に被害者がいるわけで、その行為があったわけで、それほど社会から糾弾される行為であるということを忘れてはいけないとおもう。
糾弾されることが
それが社会としての秩序につながるから。
社会の中で生きていくには、最低限の人間性や倫理感が必要。
※うそつきは泥棒のはじまりということわざができたように、社会の倫理に関係するような枠組みは必要。いじめは〇〇のはじまりみたいなの必要よね。
古市さんの考えだと、過去に何をしても許してやれということになる。
暴行、強姦、殺人など絶対許せない事件はある。
被害者が許したからいい、刑罰を受けたからいいだろうというのは間違っている。
社会として断固許せない!ということを示さないとならないとおもう。
そうでないと、示談とかでお金がある人は無罪放免になっちゃうからね。
あ、いたね、慶応の人とかね。もう何回捕まっているんだろう?
そして、今回小山田を擁護する声に対し、炎上するのはそういうところだとおもう。
擁護するということは、心のどこかで「それぐらいいいだろう」と思っている表れだと感じるからだ。
そういう人は小山田と類する人間と見える。
今までの日本はそういう考えの人のほうが声が大きかったからか、暴行や強姦、殺人など凶悪な犯罪に対し、甘かった。
それでは何年経っても社会としてよい方面に向かわない。(現実)
やっと、SNSという手段ができ、声をあげる方法を一般の人も持つことができた。
権力に対し、数という武器を手に入れたわけだ。
(いじめるような人のほうが権力持つものね。大概、性格が図々しいからね)
あと、死ぬまでというが、罪を懺悔することを認めないと言っている人はいないとおもう。
この小山田という人は、長年にわたり謝罪をしていない上に、出版物に出しているからね。悪質。
自らの行動を省みて、被害者に許してもらえなくても、社会に対し奉仕するなり方策はあったと思う。
そういうこともせずに、のうのうと生きてきたことが反省なしと判断されたとおもう。
「正義」を振りかざすと見えるのが不思議で、「まっとうな意見」と思わないことも、心のどこかで「これぐらい」と思っている証だとおもう。
だから、小山田を擁護する人の本性を皆がどこかで本質的に感じてしまうんだとおもう。
今後、公の職業に就く人、公の仕事を受ける人、発注する企業は過去の言動をすべてチェックして倫理観のない人は避けるようにしてほしいとおもう。
特にNHKな。
不払い運動が起きてもおかしくないよ。